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ここ最近、それはたった10分ほどの感情の寄せ集め

最近感化された人がいて、その人の口調に近い書き方をしてしまうかもしれません。そして、うっとうしくなるほどの文字と一瞬の感情をただ書き綴ります。そのことは最初に言っておきます。

 

 

ここ最近情緒不安定だから、何がしたいかとか何をするべきかとか、とにかく根本的に生き方を間違えていると思った。そもそも生き方を間違えたのなんて今に始まったことじゃない。完璧主義だし、変な信念深さというか偏屈なところがあるし、嘘つきだろうし、自分という人間を自分自身でも信用していない。ブログを始めて感じたことは、僕の性格というか中身の振れ幅が大きすぎて書きたいことが枠に入りきらないことだ。今こうして書いているのも一時の感情だから、どうせ朝になって読んでみれば嫌気がさすんだろうな。多分あれだね、多重人格。身体はもちろん一つだし、心も一つだと思ってやってきたけど、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。そんなことどうだっていい、今が今でよければそれでいいんだ。

 

周りの評価に自分が合わせなければいけない時が多々あってそれが生きづらいのだ。「そんなの自分のやりたいように、自分はこうなんだって生きればいいじゃん」なんて言う人もいるだろうけど、そうできれば今頃こんな僕みたいなひねくれた人間できあがってないよ。周りの評価。正直どう評価されてるのかなんて知らないし、勝手に自分で「こうしなくちゃ」なんて勘違いしているだけなのかもしれないけれど、そうやって自分に何かを課そうとする時点で息苦しいんだよ。この息苦しさと一生付き合っていくんだろうか、そうなれば多分僕は人生をリタイアするだろうな。嘘。リタイアさえ許さない自分がいるからのほほんと生きることも自分で死ぬことも許さない。多分生きていても死んでしまっても自分を責め続けるかもしれない。

 

TwitterでつぶやいておきながらLINE見ないってどういうことよ!」って怒っている人がいた。その人の言い分も分かるし、実際僕も怒ってるときがあった。でも自分でもしてしまう時があるからはっきりとは怒れないけれど。あの時の怒りはやがて悲しさへと変わる。怒っているうちはいいんだよ。だんだん怒っているよりも悲しむ方が楽になるんだ。どうせそういう扱いなんだなって。ネガティブでいると人が寄り付かないけれどポジティブな人には友達が多い、みたいなの鬱の人はどうしたらいいんだ。鬱って大変なんだろうなって、知ってる人が鬱で遠目に見ながら思ったことがあった。どれだけひとごとなんだ。でも実際そんな感じでしょ、大体の人がひとごととして生きていってるよ。それ自体は間違った事じゃないと思う。大体自分以外に大切になる人の存在ってほんのわずかだ。友達の中でもほんの一握りの人。あとは血縁関係のある人とか。好きな人とか。

 

好きな人っていうのはまったくもって面白い。「好きっていうのは無条件に相手を信じられることだ」って何かで読んだような気がしたな。好きって二音節。たったの二音節だし、日本語で見れば二文字だし、どれだけ短い感情表現だよって思った。好きになるってことは理性なんかじゃ解決できない問題だ。不倫とか浮気とかあれも好きになったからそういうことに至るんでしょ。大変だな、人間は。こういう言い方すると語弊があるけれど、ただの動物みたいに本能のままに感情を抜いて子孫を残そうとしていれば楽だっただろうに。人間として生まれてきたことを時々「あぁめんどくさいな」って思うよ。ごめんね、人間として生まれてきたかった生命もたくさんあるだろうに。もらった身体、もらった命は大切に全うする気だから安心してね、無下にはしない。これまでに死んでしまった人の分まで生きるよ。生きていくつもりでいるよ。

 

 

では本題に入ろうか。

そういえば去年だけど友達が死んだよ。「こういう話は軽々しく話すんじゃねえよ」って思われても仕方がないかもしれないけれど、あなたはその友達と僕の何を知っているんですか?って話だ。その友達とは小学校と中学校しか一緒じゃなかったけれど、9年も一緒にいればいろいろあるものだ。お葬式にはもちろんたくさんの友達が来てたよ。平日だったし学校とか休んでまで見送ってくれる友達があれだけいるなんて、あの子も幸せだっただろうな。ごめん、他人が幸せだったかどうかなんて僕に決める権利はないね。とにかくあれだけ見送りに来てくれた友達の中でも、少し違う特別な想いを抱いて僕はあの瞬間を過ごしたよ。今でも引きずってる。正直僕は生き続けなければいけないんだ。大人になれなかったあの子の分も生きなきゃいけないし、あの子にしてしまった過ちを僕は一生かけて背負わなければいけない。誰か聞いてくれよって思うんだけど、実際話してみれば「なんだそんなことか、大したことないじゃん、自分を責めることないと思うし、あの子がずっとそれを気にしてたなんて絶対思えないよ」って言ってくれるだろう。そんなのやめてくれ、僕を善人にしないでおくれ、責めてくれ、泣かせてくれよ。あの子の葬式以来僕はあの子のことを忘れずに生きてきたけれど、あの子のために僕はまだ泣けていないんだ。涙が出ないんだよ。まだ生きてるんじゃないかって時々思うし、過去にしてしまった間違いが多すぎて正当化されたら僕はそれこそ生きていけない。「君のしたことは仕方がなかったんだよ」なんて僕を正当化したり慰めたりしないでくれよ、「君のしたことはひどいね、ダメだね、そういうことしたらその人傷ついちゃうじゃんか。やったらいけないことだったね」ってありのままの僕を見て、ダメなことにはダメと言って僕を責めてくれ。そうした方が僕は少し心の荷がおりる気がするんだよ。たとえ僕の言う「過ち」がたいしたものでなくても。その友達と何があったか、その友達にしてしまった過ちについては個人的なことすぎて書けないけれど、ほんとに誰かに聞いてほしかったんだ。

 

 

ここまで書いて感情が途絶えた。眠たいからとかそういうわけじゃない。その子のことを思い出してすべての感情がそちらに乗り移った。疲れたなとかそろそろ寝なくちゃなとかどうでもよくなるね、こういうこと考えていると。僕のように「生きづらいな」なんて思っている人ってたくさんいるんだろうけど、あいにく周りにはいないんだよな。それが良かったのかどうか。多分思い出したらまだまだ書かなきゃならないことはいっぱいあるんだけど、夜は深まるし文字数は2620字を超えてきたから、このまま書くと小説ができちゃうね。誰も読めなくなるね。読まなくていいよ。書けただけで少し気持ちが楽になった気がするから。

では、お別れの挨拶ではないけど、みんな僕より先に死なないで。あと100年は生きてね。約束ね。