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五年という月日

今日は3月11日。

今からここに書く、稚拙でまとまりのない読みにくい個人的な文章をお許しください。不快感を感じた方や気分を害された方は読むことをすぐにやめてください。

 

 

あの日から5年が経ちました。5年という文字を見るたびに、日本人はつくづく奇数が好きだなぁって思う。4年や6年より5年の方がどこか重みがあるように感じるのは多分そのせいだと思う。

 

あの日のことを振り返ってみると、僕はまだ中学2年生だったなと思い出せる。時期が時期なだけに授業が早く終わったのかもしれないけれど、部活中のことでした。思い出せば火曜日と金曜日は外練だって決まっていたから、あの日はマラソンコースを走らされていた。もしかしたら自主的に当時のキャプテンが言ったのかもしれないけれど。とにかく走っている途中だった。コース半分をおおよそ過ぎて、友達と「グリコ」という遊びをしながらふざけて走っていたのが懐かしい。僕は参加していなかったけど。その時だったと思う。

大津波警報が発令されました。警戒してください」のような言葉が、どこかから聞こえた。あの時に揺れてないのになぁって思ったことを覚えている。それからとりあえず学校に戻ろうと走る。学校に戻るとすぐに先生達が焦った様子で職員室に入ったり出たり。すぐに顧問が来て「もう今日の練習はいいから、お前らすぐに家に帰れ。まだ残っている奴がいたらそいつらにも帰るよう言ってくれ」と言う。ただ事ではない雰囲気だったけれど、大雨警報が発令されて途中下校になった時ぐらいの気分でした。

家に帰るとお母さんがテレビで生中継を見ていた。もうすでに津波が街を飲み込んでいくところだった。衝撃ってああいう瞬間を言うんですね。唖然とするんですよ、本当に。実際に起こったことだとは思えなかったと言えば、安っぽい感想になるかもしれないけれど、本当にそう思うのだから仕方がない。その日はあまり眠れなかったと思う。

僕の3月11日はそんな感じでした。やっぱり地震が起こってからのことは思い出せるのに、それ以前の朝の様子や昼間の授業の様子はすっかり思い出せないんです。すごいですね。

 

当時のことを話すのはこれくらいにして、今日はいわゆる5年目です。中学2年だった少年は大学2回生に進級しようとしています。5年って長くて短いものですね。今19歳の僕にとっては、自分が生きているうちに自国で起きた大きな震災といえば東日本大震災しかありません。まだ19年しか生きていないんですよ。でももう人生の5分の1は過ぎようとしているわけです。

 

昨日から少し憂鬱でした。今日が近づくと、死んだ友達のことがふと頭によぎる、そんな回数がだんだん増えてきます。東北に友達は数人いるのですが、もちろん何人かは死にました。テレビでもなんでも「死にました」を婉曲させて「亡くなりました」なんて表現するけれど、僕はそんなこと言ってられない。死んだ者は死んだんですよ。お葬式に行ったことがある人は、多分誰かが言っているのを聞いたことがあると思います。「こんな綺麗な顔にしてもらって…」のような言葉を。自然死、いわゆる老衰はそのままで死にます。そして「おくりびと」に綺麗に身なりを整えてもらい、送り出されます。津波でなくなった人って例外もあるけれど、あまり綺麗ではなかったりするんですね。どれだけ化粧を施し身なりを整えても、顔が傷だらけだったり。僕の友達のおばあさんは指が欠けているままだそうです。津波でもみくちゃにされた時にやっぱり色々なものに当たると傷がつくんですね。そしてまだあの土地には誰かの骨や肉が埋まっているかもしれないんです。遺体安置所にはたくさんの棺、もしくはたくさんの遺体が何か布などを被せられて並ぶんです。それなりに消臭させていますが、異様な雰囲気と臭いが立ち込めているんです。死体は死体なんです。生きると死ぬの境目は、ほとんどないのにこれだけも違うものなのかと思います。

 

「5年目ですね、ご冥福をお祈りいたします」などと一部を除いて軽々しく言う人には「津波で水死した死体をあなたはその目で見たことがありますか。目の前で津波に流されていった人が遺体となって遺体安置所に並んだ姿を見たことがありますか。足が不自由なために波にどんどんと足が浸かっていく老人を見たことがありますか。あなたの家はなくなりましたか。家がまるごと流れていくのをその目で見ましたか…」と聞いてみたい。水死体の独特の臭いや水が引いた後の臭い。おじいちゃんやおばあちゃんはもう諦めようって言葉。テレビでどれだけ被災地に足しげく通ったレポーターも、当時そこにいなかっただろうと思う。経験したか、経験していないか。経験している方がいいとか、経験していなくて良かったとかそういうことじゃないんです。生者と死者との境目だけに限らず、経験したことがある人と経験していない人との境目も紙一重なんです。

そして悲しいことにその差は計り知れないほど大きいんです。

 

あの日流されそうになったがなんとか助かった、という友達がいました。その子はTwitterをやっていました。でも3.11という日が来るたびに世間で「今日はあの日から~年です」と報じられ、Twitterでもそのことで軽々しく呟かれたようなご冥福のツイートを見て、憤慨していました。そしてとても心を痛めていました。その子には黙っていて、と言われていたけれど、その子のことをここに書きます。

その子からは何度か電話がかかってきました。「もう忘れてほしいとか忘れてほしくないとかそういうことじゃない。生きているとどうしても辛いことばかりだから、負けるな頑張ろうなんて人は言うけれど、もうやめようかなって思う。生きていくの。疲れた」と電話やメールが何度も来ました。数え切れないほど自殺を考えたそうです。「がんばろう」の言葉も「負けるな」の言葉も非情です。励ましたつもりが逆に苦しめる、なんてことになりたくないから、僕は何も言えませんでした。「自殺だけはしないでほしいな。君にとって死ぬのは一瞬かもしれないけれど、僕はそのことを引きずって生きていかなきゃいけないかもしれないし。でも止めようとは思わない。できればしてほしくはないけど、どうしてもと言うのならば仕方がないのかもしれない」と言って電話を切りました。彼は、親や友達など大事な人を亡くした心の痛み、そして嫌というほど思い出す鮮明な記憶、世間の乾いた言葉からついに自殺しました。

その事実だけはどこか胸に留めておいてほしいかなと思います。本当は最後の電話で「俺が死んでも誰にも言わないで。真相は黙っておいて」と何度も言われていましたが、僕の死んでほしくないという思いを裏切った彼にこれだけは裏切らせてくださいと思っています。もう済んだことだから、死んだら死んだまま。帰ってはこないなと分かっているけど、まだあの家に行ったらひょっこり会えそうな気がする、とも思ったけれど、そもそも家もなかったなと気づく。人が死ぬってこういうことですかね。

 

もうすぐ3000字に到達しようとしています。足りないです。1万字書いても足りないくらいです。でもいざ喋ろうと思うと何も出てこないんだろうなって思います。これを書くのも数日かかって今ここです。1つずつ思い出しながら、思いを確認して整理しながら書いています。

 

少し話は変わりますが、震災にちなんで一つ。「ラジオ」というNHKのテレビドラマを知っていますか。女川さいがいFMの「某ちゃん」というとある女の子を主人公にした話です。某ちゃんは今では一部を除いて非公開にしていますが、昔はブログにいろいろ書き綴っていました。今でも公開されている「帰る場所。」という記事を無断で紹介したいと思います。本人への連絡のつきようがないので、勝手ながら無断ですが、「帰る場所。|おかあさん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました。」という記事です。この記事の言葉にハッとさせられます。本人はあえて詩のような文章にした、なってしまった、のようなことを言っていました。よければドラマ「ラジオ」もご覧ください。ドラマ仕立てで実話を少し編集していますが、僕はあの話が好きです。

 

改めて、震災から5年が経ってもいまだに復興が全く進んでいないことが残念に思えて仕方がありません。これはお金の問題でも総理の問題でもないと思います。復興目指してがんばろうなんて言うのは簡単ですが、実現するには何万人もの人が何年もかけて努力し続けなければいけないのです。時間が経つということが残酷なのは、時間が経てば熱意も冷めるということ、人は時間が経てば忘れるということです。震災直後の1年間は「絆の年」と呼ばれました。少なくともある程度はみんな協力して、復興に向けて各個人のできることをしていたと思います。もちろん今でも何かできるかと模索している人もいます。でもきっと気づいてはいますが、熱意の冷めた人もたくさんいると思います。自分の人生じゃない。知らない人の人生です。悲しいのはそういうことです。そういう考えが浮かんでしまうことが悲しいです。

「3.11という記号にしないでください」と誰かが言っていました。誰かは「忘れてください、それが復興です」と言い、また誰かは「忘れないことが一つの救い」とも言いました。一人一人の3月11日があると思います。

 

僕にはこの思いや感情をまとめることはできません。誰かの言葉を代読することすら恐れ多いことだと思います。友達が流されて、また別の友達は自殺して、その子の家は無くなって、街は死んで…いろいろありました。死んだ人は死んだままで、帰ってはきません。失くしたものは失くしたままですが、その埋め合わせをどこかでできるんじゃないかと思っています。まだ震災は終わっていませんし、復興も完了していません。もしかすると終わることはないのかもしれないです。それに、きっとこれからも別の場所で同じように悲しい出来事が起きることだろうと思います。それでも僕は、死んだ友達の分も生きていこうと思います。最後に締めくくる言葉が思いつかないのは残念ですが、今日は、5年目という節目を迎えた2016年の3月11日は、ここで終わろうと思います。ここまでの長文を読んだ方にありがとうと伝えたいです。あの3月11日まで生きて僕と仲良くしてくれた友達やそのほかの人々に感謝します。僕はまだここで生きていきたいと思います。